HISTORY

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若者二人による創業

創業者・渡邉孝は、高校の工業科を卒業後、地元・前橋の電気工事会社に就職。熱心な仕事ぶりを評価され部長の役職についた頃、勤めていた会社が倒産してしまった。しかし、孝はその危機を好機に変えた。大手電気工事会社から就職の声がかかるも、起業することを決意したのだ。

そうして昭和56年、孝は10歳年上で営業部門を担当していた桶田と二人で双和電業株式会社(現 ソウワ・ディライト)を創業。前橋市下沖町にあった友人の土地を借り、建てたプレハブ小屋を事務所とした。「絶対に同業者の下請けはせずに、元請けになる」と二人は誓った。

しかし、いざふたを開けてみると、まったく仕事は受注できなかった。「技術があるのはわかっているが、何かあったときに保障できるの?」。若者2人による起業だけに、こんな声が多かった。歯がゆかったが、これが現実だった。同業の仲間から仕事を発注してくれるという申し出もあったが、これを断り、創業の精神──「絶対に同業者の下請けはせずに、元請けになる」を大切にした。心が折れそうにもなったが、孝の統率力に高度経済成長という追い風が吹いたことで、仕事は次々と舞い込むようになった。

創立10周年記念祝賀会の様子。

現代表・渡邉辰吾の入社

一方、現代表の渡邉辰吾は当時、野球に熱中する小学生だった。その頃すでに双和電業を起こしていた父が、忙しい仕事の合間を縫ってグランドに応援に駆けつけてくれていたという。「いつか父に恩返しがしたい」──子どもながらに父の会社を引き継ぐことを漠然と考えていた渡邉。そんな思いが常に脳裏にあったからか、一度は東京の広告代理店に就職するも、26歳の春、前橋に戻り父の会社を手伝うことに決めた。

下積みの7年間

孝は、渡邉をいきなり代表に就かせるのではなく、平社員として入社させた。そこからは苦難の連続だった。父を尊敬する想いだけで入社した渡邉にとって、東京の広告代理店とはあまりに違う、会社のカルチャーが受け入れがたいものだったのだ。血気盛んな若者だった渡邉は、従来のやり方を大切にする父とぶつかることも多くあった。

そうして経験やネットワークを積み上げながら、約7年間の修行期間を経て、渡邉は双和電業株式会社(現 ソウワ・ディライト)の代表取締役を引き継ぐことになった。

前年比100倍の利益、組織は壊滅状態

代表を引き継いだ渡邉は、次々と改革を敢行していった。これまで掲げるだけになっていた中長期計画の目標にフルコミット。結果として、利益にして前年比約100倍の成長を遂げることができた。
しかし、急激な事業成長の裏側で、組織は壊滅状態に陥った。ほとんどの社員が同時に辞表を出し、組織を離れていったのだ。虚無感を抱いた渡邉は、気づいたという。自分がやりたいことは「電気工事会社を発展させるために数字ばかり追いかけること」ではない、と。

三方良しを実現するために

取引先のほとんどは「電気屋なんてどこでも同じ。安ければいい」と考えていた。すると、勝負どころは価格になる。同じクオリティを保ちながら、価格を下げ続けることは、じわじわと会社を蝕んでいく。利益はどんどん減ってゆき、出がらしのような状態になってしまう。「発注主も電気工事会社も、そして出来上がったものを実際に利用する人々も大きな利益を得られる、“三方良し”の状態は成立しない」と半ばあきらめの境地に陥っていた。

そんな折、東日本大震災が発生した。インフラが壊滅寸前になり、顧客から必要とされていることを強く体感した。社員の眼差しもがらりと変わり、使命感に燃えて仕事に出かけて行くようになった。「商売って喜びを生むんだ」と、三方良しのヒントが見えた気がしたのだ。この出来事をきっかけに、“究極の三方良し”について考えるようになった。

そんなとき、ふと目に入ってきたのが、子どもが読んでいた漫画『ドラえもん』に登場するタイムマシンだった。現在の家電製品をドラえもんのタイムマシンで江戸時代まで行き、販売したらどうなるだろうか。商人が列をつくり、町中が熱気で沸き立つだろう。もちろん、売り手ももうかる。これは、まさに三方良しの究極のシステムではないだろうか。デンキというのは、その存在そのものがワクワクと驚きを生んでくれるものであり、そうした驚きとワクワクになら、適正な対価を支払ってもらえるのではないか。デンキの力そのものを喜んでくれる人たちに、デンキを届ければ、“三方良し”が実現できるのではないか──「何とかして」とお願いされれば、四次元ポケットの中の秘密道具(リソース)を最大限に活かし、「何とかしましょう」と応える。そんなドラえもんのような存在になりたいと、渡邉は願った。そう考えるようになった渡邉は、価格競争に参加し続けることをやめた。

先代の想いに触れてもらうため、先代の喜怒哀楽を表現したアート作品としてシャッターを制作した。

「デンキのミライにワクワクする」

その頃に、前橋の活性化に寄与し、渡邉にも大きな影響を与えた一人の起業家がいる。株式会社ジンズホールディングスの代表取締役CEO、田中仁だ。彼に出会ったことで、業界や先代のやり方にとらわれない、新しい会社のあり方をビジョンとして掲げることの重要性に気づいたのだ。人を喜ばせることが好きな渡邉は、デンキをつかって人を喜ばせる会社にしようと「デンキのミライにワクワクする」を会社のビジョンに掲げた。

ビジョンを掲げたことで、ただ発注主の依頼をこなしていくだけではなく、人々を喜ばせるために、自分たちから仕掛けていける会社へと変貌していった。そうすることで、「他でもないソウワ・ディライトに頼みたい」という依頼も増えた。こうして渡邉は、積年の夢だった“三方良し”を実現したのだ。

「デンキ」から「宇宙」へ

しかし、渡邉は「デンキのミライにワクワクする」だけでは満足しなかった。私たちはデンキによって大きな発展を遂げた。しかし同時に地球へ大きな負荷をかけることになった。私たち人間にとって、デンキの発展はポジティブな面だけではないのだ。

「人間だけの物差しで、人間だけが便利になるという社会でいいのか?」──そうして既存のビジョンに疑問を抱くようになった渡邉は、新たなビジョン「宇宙のミライにワクワクする」を制定するに至ったのだ。

創立10周年記念祝賀会の様子。
先代の想いに触れてもらうため、先代の喜怒哀楽を表現したアート作品としてシャッターを制作した。